2012年8月30日

幽霊、妖怪について考察する

毎日暑いですね。
夏は怪談の季節。
実は私、妖怪をみたことがあります。別にオカルト信者ではないのですが。
その話は置いておいて、まずは一般的なところから整理してみます。


【畏れが妖怪を生んだ】
 良く言われる話として、妖怪の根本にあるものは、人間の怖れの感情だといいます。たとえば暗闇で不安な気持ちになるのは、本来人間が昼行性の動物だからだとか。夜の闇は夜行性の猛獣が潜む危険な空間なため、闇を怖れる感情が本能的に保存されているのか。

【妖怪の解釈】
 民俗学の始祖・柳田国男は、お化けを「妖怪(オバケ)」と「幽霊」に分類しました。このうち妖怪は、特定の場所に出没して相手を選びません。また、出没する時間が決まっており、形は異形の「バケモノ」のことが多いです。一方、幽霊は特定の相手に祟り、場所の特異性が無くいつまでもついてきます。またその形は人間であり、死人が誰かを恨んで出るものとされているようです。

 出典は忘れましたが、神と妖怪は紙一重であるという人がいました。その説によると、古来人類は自然の全てに神性を感じていた(アニミズム)、そのうち人にとってマイナスに働く神性、たとえば大水や大風などは邪悪な存在として扱われ、いつしか妖怪として扱われた。また、その脅威の度合が下がるにつれ、妖怪は本当に恐ろしいものから愛嬌のある存在として変化した。河童などは、昔は本当に怖れられていたものが、治水の技術が発達して水の脅威が減ったため、可愛げのあるキャラクターになったとか。

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 私は、上記「周囲への怖れが諸事に神性を与え、そのうち人にとってマイナスな存在が妖怪として扱われた」という説に基本的に賛同します。

 ただしもう一つ、忘れてはならないものに「人間の精神構造」があると思います。私が妖怪を「見ていた」のは、大学の2年生のころ。当時の私は夜勤のアルバイトをしていました。週3回、夜の2時頃に自転車で帰るのですが、電信柱の陰、木の陰が何となくヒトに見えるのです。最初は「なんとなく」程度でした。ですが、気になり始めると余計に怖くなり、いつしか本当に人に見えるようになっていました。当時の私は、どこか気持ちが不安定な時期で、家に帰ると部屋(1Kだった)の押し入れ、カーテンの裏側などをチェックしないと落ち着かないといった状況でした。

 あるとき友人とこの話をしました。すると、ついさっきまでバカ騒ぎをしていた友人に「それは精神を病んでいる第一段階かもしれない」と真剣に諭されてしまった。私はこのとき、「自分が、自分で気付かないうちに変調してしまっている」ことに気がついたのです。これ以上の恐怖が他にあるでしょうか?

 本当に怖いことは、当時の私には明らかにあれが「見えていた」ことです。
客観的には精神的な不安定さで説明出来るでしょう。しかし、想像してみて下さい。自分が見ている世界は「自分」が認識して初めて顕在化するのです。デカルト的にはego cogito, ergo sumです。もし精神を病んで奇妙なものが見えているとすれば、それは間違いなく「存在する」のです(少なくとも本人にとっては)。明らかに見えているものが、客観的には精神状態に由来したとしても、本人がそう気付かなければ何の意味もありません。

 私は、友人から指摘されたおかげで自分の不安定さに気付きました。このことによって、私は本当に救われました。しばらくして環境も変わり、完全に持ち直して現在に至っています。一方、もしあのとき気付けなかったら、一体私はどうなったのでしょうか。

 何度も疑い、想像し、怖がっていると、いつしかそれ自体が心の変調を生み、本当に見えるようになってしまう。人間は想像する生き物であり、想像は創造につながるのです。




さて、ここまで読んでくれたあなた、
あなたは一人暮らしですか?
いま部屋に居るのは、ほんとうに一人だけですか?


こんなこと、考えること自体が妖怪を見る第一歩なのですよ。
あなたの心が生んだ妖怪を。


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